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旧渡辺甚吉邸
郭家住宅
京都大学学生寄宿舎吉田寮
※「見解」中の山根芳洋氏のお名前に誤字がございました。
  (誤)山根祥弘 → (正)山根芳洋
 謹んで訂正いたしますとともに、山根氏ならびに関係各位に深くお詫び申し上げます。


京都大学吉田寮についての見解

1)建物の概要
 京都大学学生寄宿舎吉田寮は京都市左京区吉田近衛町の京都大学吉田南キャンパス内に所在する。木造2階建て、一部平屋建てで、屋根は寄棟造、桟瓦葺き。外壁は下見板張りとする。竣工時には薄い緑色にペイント塗装されていたとみられる。
 東西に長い2階建て3棟(それぞれ北寮、中寮、南寮と呼ばれる)が中庭をはさんで南北に並列し、西端で平屋建ての管理棟が南北につなぐE字形の平面をなす。東西約94メートル、南北約53メートル、建築面積約2000平米。
 当建築は1913年(大正2)9月に京都帝国大学寄宿舎として建設された。京都帝国大学は1897(明治30)年9月に創設され、敷地と施設は、1889年(明治22)に設置されていた第三高等中学校(1904年に第三高等学校)のものを引き継いだ。学生寄宿舎についても、当初は三高の寄宿舎(現在の文学部校舎付近に所在、1889年竣工)を襲用したが、文学部・法学部の施設を拡充すべく、1913年にいたって現在の位置に新築移転する。現所在地は京都府から寄付を受けた敷地の一部で、開学当初は医科大学の仮教室が建てられていた。医科大学が1901年以降、西方の吉田橘町の敷地に校舎を整備したため、仮教室群は1910年に取り壊され、以後、敷地は大学学生のための福利厚生施設にあてられる。1911年に学生集会所、翌12年に武道場が建設され、さらに1913年に当寄宿舎が移転新築した。なお、公式に「吉田寮」の名が与えられたのは1959年である。
 1889年竣工の三高寄宿舎は3階建ての寮舎1棟で、これに平屋の食堂が附設されていた。移転にあたり、これを2階建て3棟に再構成して建設され、食堂は当初の形状を保ったまま再建された(山根芳洋「京都大学寄宿舎吉田寮食堂建築物の調査実測によるその京都大学内で最古の建築物である実証」)。三高寄宿舎の設計は他の施設同様、文部省技師の山口半六と久留正道が担当したとみられる。一方、京大寄宿舎の設計は京大建築部技師の山本治兵衛と永瀬狂三が担当した(『京都大学建築80年の歩み』1977年)。
 1941年に3棟のうちの中寮の東半分を焼失したが、同規模・同形式で再建された。2014年に食堂棟は改築された。
 居室は1人部屋用と2人部屋用とがあり、すべて畳敷きの和室で、現状では8~10畳が26室、6~7.5畳が95室、定員147人となっている。各室は南北方向を長手として並べられる。各棟は、1、2階とも北側に片廊下を配し、その端部近くに階段2個を置く。

2)建築史的価値
 戦前期に建設された高等教育機関の学生寮の遺構としては、龍谷大学南北黌(1879年)が最も古く、また札幌農学校寄宿舎恵迪寮(1905年)が、1985年に野外博物館「北海道開拓の村」に部分的ながら移築復原されている。しかし、こうした少数の例外を除き、1980年代までにほとんどが建て替えられている。上記遺構も用途は変更されており、現在まで寮舎として使用されている遺構としては当吉田寮が最古である。
 寄宿舎の設計においては、中廊下をはさんで居室を南北に配置する従来の平面構成が1910年前後に衛生的見地から改められ、北側に廊下をとって居室を南面させるパターンが定着する。居室のあり方については、高校までは寝室と自習室を併置し、寝室は4人~8人部屋が通例であった。これに対して吉田寮は大学生のための寮として1人部屋であり、紳士扱いの現れと見られていたという(西山夘三『日本のすまい 第3巻』1980年)。いうなれば、学生寮の形式が安定した時期に、そのエリート版として建設されたのが吉田寮であったと位置づけられる。一方、東端に置かれた便所や階段室の構成には前身建物である三高寄宿舎の様態が残されていると考えられ、明治前期の建築技術を知る上で貴重な資料である。
 当建築で用いられる下見板張りの外壁と漆喰壁に配されるスティック(化粧の木軸)、額縁をめぐらした引き違いガラス窓、軒天井、室内における竪羽目の腰壁などは、明治期を通じて完成される木造学校建築の手法を応用したものと位置づけられる(『京都府の近代和風建築』2009年)。細部装飾は天井ブラケット(持ち送り)や階段手摺り親柱などに限定的にしか見られないが、玄関部分だけ半切妻に作って妻面を見せ、正面性を強調する手法など、単純な構成の中での意匠的配慮が施されている。
 当建築の南側には1925年に建設された楽友会館(設計:森田慶一)が存在する。同建築は反転曲線を持つY字型の柱など表現主義的な造形を駆使していて、日本の近代建築運動の里程標として著名である。南部構内に現存する2つの建築は12年間ほどの時間差しかないが、19世紀的な吉田寮と1920年代の先端的な傾向を示す楽友会館とが並び立って、20世紀の建築造形の転換を示す場となっている。
 吉田寮は建築史的に見て稀少な存在であり、これを中心に置く南部構内は良質な歴史的環境を形成しており、その保全と適切な活用を強く希望するものである。